17.関ケ原宿~今須宿

約6.9km

関ケ原古戦場記念館から石のオブジェが並ぶ小路を通って不破の関へ。中山道から大きく南に迂回して県下で最も古い曹洞宗のお寺「妙応寺」のある今須宿へ

 

【コースの見どころ】

  • 関ケ原町歴史民俗資料館
  • 岐阜関ヶ原古戦場記念館
  • 関ヶ原駅前観光交流館
  • 石のオブジェの小径
  • 不破関資料館
  • 黒血川
  • 妙応寺

 

 

関ケ原古戦場記念館  

ここに来れば関ケ原の戦いがすべてわかる!東西両軍の中に迷い込んだかのような迫力映像体験、常設展示、展望台から古戦場を一望と関ケ原の戦いを五感で味わえます。

関ヶ原駅前観光交流館

いざ!関ケ原

関ケ原イチの種類を誇るお土産ショップ!戦国グッズもバラエティー豊富。西と東で味が違う!「どん兵衛の東西セット」や戦国武将のグッズ、関ケ原オリジナルのTシャツなど、バラエティーに富んだ商品が並びます。

徳川家康最後陣跡

「徳川家康」は、合戦当日の午前11時頃、戦況が把握できないため、笹尾山の「石田三成」の陣の正面であるこの陣地に本陣を移しました。一説には、ここから松尾山の「小早川秀秋」を鉄砲で威嚇したと言われています。


不破の関跡

672年に勃発した壬申の乱では、この付近を境に東方の大海人皇子(天武天皇)と西方の大友皇子(弘文天皇)が対峙し合戦となりました。翌年、戦いに勝利した大海人皇子はここを要所として「不和の関」をとしました。東山道美濃不破の関は、東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛知(あらち)の関とともに、古代律令制下の三関のひとつとして重要視された。平安時代以降には、多くの歌や紀行文に関跡の情景が描かれました。

「秋風や 藪も畑も 不破の関」芭蕉

黒血川

壬申の乱では、この川の西岸に近江軍(大友皇子)、東岸に吉野軍(大海人皇子)が布陣し激戦を繰り広げました。その時、この山中の川の水が両軍兵士の流血で黒々と染まったといわれ、その後、激戦の様子を後世に伝えるように川の名も黒血川となりました。室町期の文学者で関白太政大臣でもあった一条兼良は次のような歌を詠みました。

 

 白波は 岸の岩根に かかれども 黒血の橋の 名こそかはらね

 

妙応寺

正平15年(1360年)に、今須領主長江重景が、亡き母・妙応のために創建した県下で最も古い曹洞宗寺院。近辺には「地獄谷」、「伝説の巨人・ダダ法師の足跡」などのスポットもあります。